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【第二回】論争の余地なきおすすめの本ーマルティン・ハイデガー『存在と時間』ー

 【第二回】論争の余地なきおすすめの本ーマルティン・ハイデガー『存在と時間』ー

こんにちは。

北畑淳也と申します。
今回は第二回といたしまして、前回に引き続き「論争の余地なき」という傲慢なタイトル付けで書評を書かせていただきます。

 

第二回は二十世紀最大にして最難関とも呼び声高いハイデガーの『存在と時間』をご紹介します。

 

名前くらいは聞いたことがあるもののあの分厚さとハイデガーが独自の言葉遣いに翻弄され投げ出してしまった方も少なくありません。

 

しかしながら、あそこには極めて重大なことが書かれているため、ここを通り過ぎていくことは惜しいと言えるでしょう。

 

ということで、今日は、ハイデガーの『存在と時間』を読むきっかけとなるような書評を書かせていただきます。


  1. 『存在と時間』が難解たる理由は?

  2. ハイデガーの結論に対する考察

  3. 『存在と時間』と合わせて読みたいおすすめの本



『存在と時間』が難解たる理由は?


ハイデガーの『存在と時間』という著書に挫折する理由はなんなのか?ということを考えた時に、「我々のような「存在」について分析しているのはわかるが、結局何が言いたいのかいまいちわからない」ということ挙げられます。

 

試しにハイデガーの存在分析についての一節を引用します。
現存在はそれがすでに存在していたありかたで、それが「何」であったかによって、その都度事実的に存在する。現存在は、明示的であるかどうかは別として、つねにみずからの過去を存在しているのである。

マルティン・ハイデガー『存在と時間1』

 

これをすんなり読める人は極めて稀有でしょう笑

 

もちろん何度も読んでいくとなんとか分かるのですが、著書を通してハイデガーは「」<>という記号を使うため読んでもらう気があるのかと言いたくなるほどです。

 

 

なぜこのように回りくどいのか??

なぜこのように難解に書くのか??

 

このような疑問に対しては、ハイデガーの著書の中での言い分としては、「旧来の言語の定義を用いることは存在分析を阻害するから」(主観や客観などが代表例としてハイデガーは挙げている。)なのですが、それでも論文の最初か結論に自らの見解をかけるはずだと私は考えているためこの言い分は十分な反論ではありません。

 

 

では前置きが長くなりましたが、ハイデガーが出したにもかかわらず明示的に書くことを避けた結論とは何なのかというのは一つです。

それはアーレントの見解を引用することで代弁したいと思います。
彼は、ハイデガー的な意味での存在とは無であることをー彼の用いるあからさまな言葉のトリックや人を惑わすような言い方にもかかわらず、理にかなった一貫性を持ってー示している。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(『実存哲学とは何か』より)

 

ハイデガーが『存在と時間』において出した見解とは回りくどく書かれているものの「我々の存在に前提となる意味はない」というものなのです。

 

詳細は本文を参照頂ければと思いますが、「主観」「客観」という今でもよく使われる言葉すら、キリスト教的ものの見方が混入しているとハイデガーは考えます。

 

「自分は何で生まれてきたのか」

「自分は何のために生きているのか」

 

こういった疑問を誰しも抱いたことがある中で、ハイデガーのだした見解は強烈であると言えましょう。

 

しかし、逆にハイデガーというのは最も妥協なき「現世の哲学」の第一人者だと言えるのです。神を失った人間世界と最も誠実に向き合った人と言ってもいいかもしれません。
ハイデガーの哲学は、最初の絶対的で妥協のない現世の哲学である。人間の存在を規定しているのは、それが世界のーなかにーあることであり、この世界内存在にとって賭けられているのは、端的に言えば、世界のうちで自己自身を保持することである。

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』(『実存哲学とは何か』より)

 

ハイデガーの結論に対する考察


ハイデガーが出した「我々の存在に所与の意味はない」という言葉は「実存は本質に先立つ」という有名な言葉として哲学の世界を駆け巡ったわけですが、この衝撃は我々にはこうして今生きている意味もないのか?という恐怖を抱かせてしまいます。

 

このような危機的事態に対して我々はどのような選択ができるのか?

これは三つあると私は考えています。

 

一つが「信仰自体」への撤退という方法です。

これは、キルケゴールという哲学者が近代の始まりにあたり、神の死をいち早く察知しとった選択です。
彼に欠けているものは、実は必然性なのである。・・実は服従する力なのである。・・・自己の限界とも呼ばれるべきものであるが、この必然的なもののもとに頭を下げる力なのである。

セーレン・キルケゴール『死に至る病』

 

平たく言えば、もう神はいないのだけれど、「祈り」自体、「必然」自体に飛び込みその中で生きるというものです。(『死に至る病』にはキリストという言葉が出てくるため私の見解が一見おかしなように見えますが、キルケゴールが「神への懐疑」自体を持ち込んでしまっているのは最後まで読んでいただければわかると思います。)

 

これは具体的な宗教に加盟するということを必須とするのではなく、ただ「形而上学的なものがあるはずだ!!」という意気込みを支えに人生を歩んでいくということも含みます。

 

二つ目が、ホッブズを起点としてニーチェの思想においても垣間見られる自らの内に湧き上がる「本能」を追い求めるというものです。
人類全体に共通する一般的な傾向として第一に挙げられるのは、絶えず突き上げてくるやみがたい権力欲である。それは、生きている限り静まることがない。そのような欲が生ずるのは必ずしも、既に得ている満足感よりも密度の濃い満足感を望むからではない。また、ほどほどの権力では満足できないから、というわけでもない。むしろ、満足の行く生活を保つべく現有の権力と手段を維持しようとすれば、さらに多くの権力と手段を獲得しなければならないからだ。

トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』

 

この上に書いた「権力」だったりニーチェの語る「力への意志」というのは読み手の解釈によって異なります。ニーチェがそう意図しなかったにせよ、例えば、現代社会ではいたるところに「功利主義のカテゴリー」が持ち込まれていますから「金銭欲」などを我々の本能的なものと解釈をするという人は少なくないでしょう。
 

要は常に現世における「権力」(ここは読み手に委ねられている)を増幅し続け、自らが最も強いものであるという果てなき道を歩み続けるというものです。

 

三つ目が、自らの存在の意味を哲学し続けることが挙げられます。

「自分はなんで存在しているのかということをあらかじめ設定してしまいたい」

既出の二つの考えには上記のような願いが暗に含まれているのですが、これを転倒させたものがこちらの考え方です。

こちらの考えの前提は「意味は後で生まれてくる」、その歩いている道は苦しいものであれ何であれそこには後で意味がもたらされるというものです。

近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

 


「自らの存在の意味を問い続ける」

これはもちろん一人で引きこもって考えるというのも一つですが、他者との対話を通して行うものでもあります。もちろん下記のヤスパースの言説の通り、「完全な自身」にはたどり着けないのですけども、その「真理の探究」が我々にとって一つの光となります。

 
彼はどの種の人であれ常に人間の中に入って行き敢行する。きわめて疎遠なもの、敵対するもの、最も多く自分を疑ったり否定したりするもの、この種のものが彼を惹きつける。自分がなんであるか、自分がそこでいかなるものに成るかを経験するために、彼はそれらのものを探し求める。彼はけっして完全に自身とはならない。

カール・ヤスパース『哲学』

 

皆さんはどの道を歩いてみたいですか?
参考になれば幸いです。

Read For Actionではこういった一筋縄ではいけない問いにみんなで知恵を絞ります。


『存在と時間』と合わせて読みたいおすすめの本


ハイデガーは20世紀以降の哲学(生き方)の最も土台になった人と言ってもよく、『存在の時間』を通して我々のスタート地点を確認することは今後の生き方を考える上で大いに啓発してくれるおすすめの一冊と言えます。

 

下記は、ここで引用したものも含め本記事を書く際に参照した文献です。

もしよろしければ参照してみてください。

カール・ヤスパース『哲学』

ハンナ・アレント『アーレント政治思想集成』

ハンナ・アレント『過去と未来の間』

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこういった』

トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』

セーレン・キルケゴール『死に至る病』

 

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